わかしょ文庫|うろん紀行 第11回 ニューヨーク

うろん紀行

WEB連載「うろん紀行」が2021年8月に
書き下ろしを加えて書籍として代わりに読む人から刊行されました。
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第11回 ニューヨーク

「実はまた休暇を取ったのさ。九月まで休めるんだ。それでしばらくニューヨークで暮らしてみようと思ってね。もう十丁目にアパートを借りたんだ。五番街と六番街のあいだだよ」

「あのへんは気持ちのいいところですよね。僕もよく散歩で通ります」([1]p.470)

 マンハッタンは碁盤の目に区切られている。縦が「~番街」と日本語では表記されるアベニューで、横が「~丁目」のストリートだ。それぞれ、南から北、東から西に行くごとに数字が大きくなる。だからそれぞれの数字を知れば、だいたいどの辺りだと見当がつくようになっている。『ムーン・パレス』の「僕」が、奇妙な縁で結ばれた人物「バーバー」の滞在先のことがわかったように。線と線は平行に伸びて垂直に交わる。それはまるで、都市計画の担当者が注意深く定規をなぞって引いた線そのものみたいだ。彼は三つ揃いの背広を乱暴に椅子にかけシャツの袖をまくり、手の震えが伝わってしまわぬよう用心をしながら線をひく。並ぶ建物と建物の面はまるで刃物で切り揃えたかのように平らで、陽の光を反射して冷たく光った。わたしは2020年2月上旬、実際にその光を見た。古い鉄道高架を再利用したハイラインの上から眺めたマンハッタンは、道の端から端までくまなく見通すことができそうだった。

 緻密な線と線は、四角をより強靭に区切る力までをも持ってしまったのかもしれない。ニューヨークは立つ場所によって全く違う光景が広がっていた。場所によって、そこにいる人間が違うように見えた。外見が、人種が、宗教が、職業が、違う。溶けて交わることはないみたいだった。いまやニューヨークは人種のるつぼではなく、人種のサラダボウルと言わなければならないらしい。けれどもボウルの中ですらよく混ざっていないような気がした。違う区画の人間同士は、相手のことが見えていないみたいに見えた。そのことはわたしを少なからず失望させた。

 わたしはニューヨークを、そうなりたいという強い想いと才能さえあれば何にでもなることができる街なんだと思っていた。アメリカンドリームだなんて馬鹿げた言葉を過信していた。しかもそれは、アメリカ人であることをすら求めないのだと。様々な国から様々な人たちがやってきて、それぞれが持って生まれた能力のとおりに、収まるべきところに収まるのだと。でもなんだか、能力とは違う力が働いているような気がした。

グラスにお代わりを注いでくれるウェイターに”グラシアス”と言うべきか、”サンキュー”と言うべきか、僕は悩んだ。七人分の食事が少なくとも千ドルはしそうなこの店でも、仕事の大半をこなしているのはフットワークの軽い下層階級のヒスパニック系労働者だった。([2]p.133-134)

 飲食店の従業員は本当にほとんどヒスパニックだったし、美術館の警備員は黒人ばかりだった。アジア系の人間は観光客を除いては滅多に見ることはなくて、空港と中華料理屋にそれぞれいるだけだった。もちろん、たった一週間しか滞在しない観光客には見えない場所があるのだろう。貧しい生まれでもなりたいものになれる人間もいるだろう。だが流れに逆らって泳ぐことは、きっと大きな困難を伴う。

 911のグラウンド・ゼロの巨大なプールの淵に刻まれた犠牲者の苗字は、「Mc~」とか「O’~」ではじまるものばかり目についた。入植が比較的遅かったアイルランド系は、伝統的に警察や消防といった職につくことが多かった。親子代々で同じ職業であることも珍しくないのだという。

 この街では、生まれ持った出自で、大きな流れが宿命づけられるみたいだった。ガイドを頼んだ、腹が突き出て白髪まじりの元市警はわたしに向かってこう尋ねた。

「ニューヨークは多様性の街だと思うかい?」

 Yesと答えるのとほぼ同時、遮るようにNoと言われた。現に彼は、他の多くのアイルランド系住民とともにブロンクスで生まれて暮らし、警察官になったのだと。黒人はハーレムで暮らすし、ダイヤモンド街は黒髪に長いもみあげの正統派ユダヤ人しかいない。ニューヨークがもし多様性に満ちた街なのだとしたら、なぜチャイナタウンには中国系の住民しか暮らさないのだろうと、彼は自分自身に言い聞かせるように言った。

 もしわたしがニューヨークで育っていたら、わたしは寿司屋で働いたのだろうか。空港の手荷物検査をしていたのだろうか。あらかじめ数えられる程度に用意された選択肢をなぞるようにして、人生を生きたのだろうか。街を行きかう人の目にわたしはどのように見えていたのだろう。

 天に向かってそびえたつようなマンハッタンの摩天楼。アール・デコ調のクラシカルな外観をしていて美しかった。かつてのエンパイア・ステート・ビルとクライスラー・ビルの高さの競い合い。とうの昔に過ぎ去ったはずの過去が、なんともない顔をしてそこにいるみたいだった。豪華な入場口をくぐりぬけたら、建物が建てられたばかりの時代に飛んでいけそうな気がした。でも中はひしめきあう観光客と、調子よく笑う黒人かヒスパニックの警備員がいた。警備員は前時代風の衣装を着崩してだらしなく立っていた。全員が現代の顔つきをしていたしポケットにはスマートフォンを突っ込んでいる。毎日その場所で働いているであろう彼らまでもが、浮かれて楽しそうだった。まるで無意識のうちに、いつかの時代を生きた人物を表情でだけでも演じなければならない、そう思い込んでいるかのように。

 私は「おもしろくなってきた」と言ってから、いま知り合ったばかりの男へ、「まあ、変わったパーティーだと思ってるんですよ。なにしろホスト役が見当たらないんですから。私はすぐ隣に住んでまして――」と、ここからは見えない生け垣のほうへ手を向ける。「ギャツビーなる人物からの招待状を運転手が持ってきましてね」

 すると、男が怪訝そうな顔をした。

わたくし なのですが」と、いきなり口にする。

「えっ!」つい大きな声を出してしまった。「これはどうも失礼なことを」

「ご存じかとばかり。いや、ホストとしてはけしからんことです」([3]p.80)

 20年代にはマンハッタンはすでに高層ビルがひしめきあう街だったという。第一次世界大戦の戦勝国となり好景気が到来し、 清教徒 ピューリタン の力添えによる禁酒法が施行されたことにより、逆説的に密造酒が流行した。スピークイージーを埋め尽くすフラッパーたちのジャズ・エイジ! 黒人達のスラングでかつては性行為を意味したジャズという言葉が、音楽、ダンスとまるで夜の闇のようにあらゆる意味を取り込んでいった。グレート・ギャツビーの世界。ギャツビーは自分を飾り立てることで成功し、嘘で覆い隠すことのできなかった尊い資質によって破滅する。浮ついた人々が快楽だけを追求した軽薄で馬鹿げた20年代を生きられたら、それはどれだけわたしにとって幸せなことだろう。

 けれども、そもそもわたしがフラッパーになんてなれるわけがないのだ。わたしは白人でないし、社交界にふさわしいルーツを持たないからだ。だがマンハッタンにふさわしいルーツとは? この島にはもともとネイティブ・アメリカンが暮らしていたのではなかったか。

 子どものころどこかで見た英語の教科書のことを思い出した。表紙はつるりとなめらかで、開くとカラーインクの匂いで鼻の奥がつんとした。ニューヨークにある株式会社が舞台になっていて、そこではあらゆる人種の人が働いている。彼らはそれぞれ着たい服を着こなし、それぞれの民族の名前を使っていた。彼らは共に働きながら、時にはお互いの文化の差異を話題にして、ちょっとした誤解を笑いながら修正するのだ。彼らは差異そのものを尊重し、楽しんでいた。あの会社がこの街のどこかにあるのだと、わたしは無邪気に信じていたらしかった。

 ニューヨークでは、それぞれのルーツ、それぞれの時間、それぞれの記憶、それぞれの人生の断片があたりに遍在しているようだった。しかしそれらはまるで平行の位置に存在するようで、孤立し、互いに影響を及ぼさない。マンハッタン島は山手線の内側ほどの面積しかない。それほどちいさな島なのに、あまりにも多くのレイヤーが存在していて、互いに影響しあわない。人生の一瞬、時空の断片が、鉱物のかけらのようにあたりで煌めき、ものすごい速さでわたしの身体を突き刺し傷つけていくようだった。わたしは愚かな観光客で、ニューヨークのどのブロックに立っていようが、そもそもニューヨークを訪れようが、何の影響も及ぼさない。この街の歴史から、この街に暮らす人から、何も受け取らないし何も与えない。人々は分断されていて、自分の立っている場所からしか見ることができない。

 けれどもそれを、断罪することなんてできるのだろうか。ひとりの人間が生涯で触れ合うことのできる人数など限られているというのに。溶け合い混ざりあうことを期待してしまうことこそ、病的な強迫観念だったのかもしれない。ただそこに断片があると、ひとりひとりに固有の記憶が存在しているのだと、おぼろげながらもかすかに肌で感じさえすればよいのではないか。

 ニューヨークでわたしは不眠症になった。毎日三万歩も歩いていたのに、目も頭も冴えきってしまい、何時間も眠ることができなかった。毎夜わたしは、何の飾り気もない消毒液の匂いのする白いシーツにくるまり、タイムズスクエアの電光掲示板の明かりをたよりに本を読み続けた。詩人が思索を重ねながらニューヨークのあちこちを訪れる『10:04』などを。

 これは僕の記憶に残らないだろう。これは今までに僕が見た中でいちばんきれいな街の風景だ。感触と速度も完璧。(中略)なのに僕の記憶には残らないのだ。薬がそれを消し去ってしまう。すると、切迫する消失のオーラに縁取られた風景はさらに美しさを増し、さらに麗しい経験を生んだ。(中略)今見たものの記憶は残らず、それを何らかの言葉にして残すこともできないと思うと、風景は充溢し、一時的にそれ以外の意味を失った。抹消が確実だからこそ現在の経験が得られているのだと思うと、彼は深い感銘を覚えた。([2]p.92-93)

 記憶の断片は、やがて結晶になるのかもしれない。あの小さな島には数えきれないほどの無数の結晶が、それぞれの線の内側で、ひっそりと光を放っているのだろう。

(つづく)

参考文献
1.ポール・オースター 著、柴田元幸 訳『ムーン・パレス』(新潮文庫)、一九九七年
2.ベン・ラーナー 著、木原善彦 訳『10:04』(白水社)、二〇一七年
3.フィッツジェラルド 著、小川高義 訳『グレート・ギャツビー』(光文社古典新訳文庫)、二〇〇九年

著者紹介:わかしょ文庫(わかしょぶんこ) 91年生まれ。都内在住の会社員。昨年5月に出したエッセイ集「ランバダ」がひそかに話題を呼ぶ。11月に文学フリマ東京に出品した続編「ランバダ vol.2」も好評を博す。Twitter @wakasho_bunko

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