『うろん紀行』へのメッセージ

わかしょ文庫著『うろん紀行』にいただいたメッセージや書評をいただいています。

『うろん紀行』特設ページへ

 

 小説を読み、小説の舞台や関連性を見出した場所に足を運ぶ。しかし、著者は小説と現実の共通点を見つけるために旅をしているのではない。むしろ目の前に現れるのは差異や不具合ばかりである。 「人はなぜ小説を書くのだろう。なぜ小説を読むのだろう」と著者は問う。「決して同じ場所にたどり着くことはできないのに」と。しかし、小説が生まれ、小説が読まれる行為が一過性で再現不可能なものだからこそ、小説と現実の間に生じた差異や不具合のなかに著者本人が発見され、同時に「読者」たり得るのではないか、と僕は思う。つまり、読書は終わらない。それどころか、小説も旅も終わらず、何度でも繰り返すことができるのだ。
 ずっと読書家としてあり続けたいひとり人間として、一緒に迷い、一緒に楽しみ、たくさん励まされながら読みました。 
 

フリーライター 宮崎智之

小説に関係がありそうななさそうな場所で、目的がなさそうでありそうな旅をする。
読むこと、書くこと、そしてより深くあじわうこと。
それは、こうした身体を使った読書でしかできないことなのかもしれない。
本をガイドに道に迷い、人生に惑う著者の道行きに、本作を通して同行できたことがとても嬉しい。

ON READING 黒田杏子

「読んでしまったら、書くしかない」

 もしかしたら本屋としては致命的というか、あるまじきことなのかもしれないが、本にまつわる思い出や記憶があまりない。読んだそばから忘れていっている気がする。だからよっぽど印象に残った本や、理由があって何度も読んだ本以外は、再読でも楽しめる。あれ? これは幸福な性質かもしれないな。
 ともかく、本の内容すらぼんやりとしてしまうのだから、いつどこでどんなシチュエーションで読んだのかなんて、なおさら覚えていない。しかしひとつだけ例外がある。ひとり旅の最中に読んだ本だ。これははっきり覚えている。たとえば井上雄彦の『バガボンド』。高2の夏休み、春までサッカー少年だったものの怪我でスッパリと辞めざるを得なくなり、夏休みになにもすることがないというこれまでになかった異常事態による不安のせいか、急に「北海道にひとり旅に出よう」とある種の典型的な衝動に駆られたセキグチ少年は、14日間の周遊切符を手に北の大地を目指した。その途中の青森で1泊する際にブックオフで数巻購入したのだった。
 その後も旅の間、読み進めては少しずつ続きを買い足していった。武蔵は「天下無双」とはなにか、とずっと自問していた。セキグチは3日目くらいで寂しくなって帰りたくなった。武蔵はひとり精神の奥地へとどんどん入り込んでいったが、セキグチはひとり北海道の奥地へと進む孤独に耐えられなかった。どうにか知床までたどりついて、帰りはほぼどこにも降りずに札幌まで戻ってきた。気づいたら家にいた。周遊切符は半分残っていた。ちなみに、帰り道は学校から夏休みの課題本に指定されていた夏目漱石の『こゝろ』を読んでいた。旅の途中ホームシックに陥った16歳の少年がひとり『こゝろ』を読む。このストーリーに何がしかの意味を見出したくもなるが、単に真面目だっただけである。ぜんぜん面白くなかったのだろう。例によって物語についてはほぼ覚えていない。というか『バガボンド』についてもよく覚えていない(武蔵はほぼ全編にわたって天下無双について考えている)。『こゝろ』を片手に函館にある「土方歳三最期の地碑」を見た記憶はあるのだが。

 なぜこんなことを急に語り始めたかというと、わかしょ文庫『うろん紀行』(代わりに読む人)を読んだら、自分も書き手と同じことをしてみたいと思ってしまったからだ。ある場所に行って本を読む、あるいは、本を読むためにある場所に行く。そして、そのことについて書く。なんと贅沢な。自分もやりたい、しかしいまはファッキンコロナエピ(feat. 政府)、新規書き下ろしは難しい、となると過去の旅を引っ張り出して……となったところで気づいたのだ。ぜんぜん覚えてねえ。だからいま「ほんとはもっと書きたいのに!」と地団駄を踏みながらこれを書いている。あなたもそうなるに違いない。僕のように記憶装置の網目がザルじゃなくても、少なくとも、あなたはある場所に行き、そこで本を読み、そのことについて書きたくなる。なぜか。
 それはもうひとえに、わかしょ文庫さんの文章が面白いからであり、その文章から書き手の楽しげな、いや、「書きたい」という気持ちが伝わってくるからだ。第一章、海芝浦。連載の話をもらった書き手は、明らかにわくわくしている。この旅をいいものにしてやるぞ、いいものを書いてやるぞ。気迫十分だ。隠しきれていない。だがその期待や気迫はあっさりと裏切られる。現実の海芝浦はイメージや記憶と異なっていた。旅あるあるというかもはや人生あるあるだ。しかしその落胆や予想外のできごとすら、気合の入った書き手にとっては「語りうるもの」である。できあがった原稿は非常に面白く、ぜんぜん負けてない。
 この本を持ってここに行けばこういうものが書けるのではないか、という期待は良くも悪くも常に裏切られる。その「現実」による裏切りと戦い、戦ううちに仲良くなり、いつしかそれがないと物足りなく思えてくる。“わたしの本はすでに、何の意味もなさない言葉で埋め尽くされてしまったような気が”していた書き手が、最終的に“誰ひとりとして運命のもとに生きているわけではない”ことを肯定して終わる十二章は、本人があとがきでも振り返っているように、ひとつのエポックだ。もしかしたら、いやきっと、「こんなはずじゃなかった」と思いながら毎回の旅を終え、「これが書きたかったわけではない」と思いながら原稿を提出していたのだろう(だから読者の感想とは裏腹に、書き手はいつも「負けた」と思っていたかもしれない)。しかしその足跡が、そのもがきや渇望が、この本を読む者に何かを感じさせる。本を読みたい。旅に出たい。そのことについて書きたい。もっといいものを。もっといいものを。その気持ちが世界に伝播していったら最高だ。それができる1冊であり、本という形をとったひとりの<平和島のブローティガン>の人生を、こうしてわたしたちは知った。そして、このあと次なる<○○の○○>が雨後の筍よろしく現れてくることを、本屋は知っている。読んでしまったら、書くしかないのだから。

 といったところでまたひとつ、幕張の灯台守は思い出してしまった。あれは大学1年の夏休み、急に「四万十川に行きたい」と典型的な大学生の衝動に駆られたセキグチ青年は、新幹線と特急を乗り継ぎ高知県に上陸、どこかの駅前の本屋で有川浩の『図書館戦争』文庫版第1巻を買ったのだった。中学3年の終わりにはじめてできた、そして高校入学後すぐに「嫌いになったわけじゃないんだけどね」という哲学的、あまりにも哲学的な理由で別れを告げられ(続きは有料会員になると読めます:残り9785文字)

本屋lighthouse 関口竜平